ごあいさつ
このサイトの管理人であるkagamiは、数年間日記を書きつづけている。彼の日記はプレーンだ。このプレーンさ、それはおそらく、彼の日記がある種の「処理」によって副次的に産まれた物であることの証左だろう。それは一日を「一日」にするため、割り切るための処理である。出来事に対して、記述という仕方で一定の深度まで立ち入る——逆にいえば、一定以上は立ち入らない——ことで、その工程は完了する。そして一日分の記録は、ウェブサイトという外部へと出力され保存される。こうすることによる最大の利点は、恐らくkagami本体が、安心して健康的に「忘れる」ことができるということなのだろう。「忘れる」ということは無になることを意味しない。そうではなく、それはある記憶が脳ミソの新たな襞のなかに畳み込まれる(=頭がよくなる!)ということであり、また同時に、来たるべき明日の出来事を受け入れるだけの余白を確保することでもある。彼の日記はレム睡眠のエクリチュールであって、夜と朝のあいだに書かれている。
ところで、私自身もかつて、kagamiと並走して日記を書いていた時期があった——しかし、それはkagamiの綴るような「日々の記録」ではなかったし、さらに突き詰めればそれは、しばしば内容的に日記的ですらなく、単に一日を〆切として設定しただけの、一定のまとまりをもった文章であった。事実、私は当時、能う限りすべてのスキマ時間を書くことに費やしていた(そんな日記があるものか)し、実際の文中でも、その日の出来事から連関する過去の経験を思い出しては話を脱線させていて、もはやこれは「日記」と呼んで良いのか分からないなぁ、と我ながら思っていた。そして私が何よりもkagamiと異なっていたのは、彼が自分の書いたものを全くといってよいほど読み返さないのに対して、私は自分の文章を何度も何度も読み返していた点だった。つまり私は、文章として外部化しても忘れられないような何かしらの問題を抱え、それに執心していたということである。私の日記もどき、それはkagamiの日記とはまったく逆のものだった。いわばそれは、不眠症の狂人がみた白昼夢であった。
kagamiと私のあいだには以上のようなスタイルの差異があり、そしてこれは両者とも、以前から今までずっと変わっていない——いや、変えたくても変えられないというのがきっと正しい。しかしながら変わったこともある。あれからkagamiはサイトをリニューアルしてサーフェスウェブ上に移転させたし、私はなにか書きたいという気持ちは依然としてあるのだが、かつてほどの熱量で毎日更新することはずいぶん前から難しくなってしまった。私に彼の心境は分からないので、断言できるのは次のことだけだ。今の私には、彼の新たなスペースを間借りして、時折まとまった文章を載せるくらいのペースが一番心地よい気がする。そういうわけで、私、冬附(ふゆづき)は、不定期でここを更新するだろう。kagamiの読者諸君にあっては、私の文章は彼の日記のフレーバーテキストか何かだと思って、読んだり読まなかったりしてほしいと思う。